ビートルズ ジョン・レノン
音楽シーンを変えたビートルズのメンバー
日本を含め、世界的人気を得たビートルズのリーダーで、同じくメンバーであるポール・マッカートニーさんとつくった楽曲はやイメージビデオはさまざまな音楽シーンを変えていきました。
ビートルズを解散後にはソロでも音楽活動をつづけました。
ニューヨークの自宅前で、熱狂的なファンに射殺されたことも世界的大ニュースとして広まりました。
最初の結婚
1958年に、ジョン・レノンさんは美術大学のリヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art) に入学し、最初の妻となるシンシア・パウエルさんと出会います。
シンシアさんが大学を卒業した翌年の1962年に、妊娠が発覚したことを契機にジョン・レノンさんと結婚しました。
この時に二人の間にできた子どもが、のちにミュージシャンとなる息子のジュリアン・レノンさんです。
しかし、父が不在で母は他の男性と同棲し、叔母夫婦の元で育てられたという経歴のジョン・レノンさんは子どものあやし方や接し方が分からずに、父親としての育児を放棄します。
のちに息子のジュリアンさんは、「父は『愛と平和』について歌っていたが、家庭には愛も平和もなかった」と話をしています。
ビートルズのメンバーのポールさんも、ジョンさんのように母は早くに他界していましたが、ジョンさんの代わりに父親役をすることが多くありました。
「どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか? やり方が分からないんだ、とジョンに聞かれたことがある」とポールさんは語っています。実際、ジュリアンさんと一緒に遊んでいる写真のほとんどがポールさんでした。
そんな傷ついたジュリアンを慰めるために、ポールさんが作った曲が「ヘイ、ジュード」です。
オノ・ヨーコとの出会い
オノ・ヨーコさんは日本生まれのアメリカ芸術家です。
大学在学中の1956年にピアニストで作曲家の一柳慧と結婚し、1962年には映像作家のアンソニー・コックスさんと結婚しようとしますが一柳慧さんとの法的には婚姻関係が続いていたために一度無効とされ、1963年にもう一度結婚しました。
アンソニーさんとも、一女をもうけた後1969年に離婚します。
1966年11月に、ロンドンで開催されたインディカ・ギャラリーにてオノ・ヨーコさんの個展『未完成の絵画とオブジェ』(Unfinished Paintings and Objects)の開催前日のプレビューショーに、ジョン・レノンさんが訪問したことをきっかけに出会いました。
そこに展示されていた作品『天井の絵』(Ceiling Painting (YES Painting))を、ジョンさんがいたく気に入ったといいます。
そこで、オノ・ヨーコさんの才能にほれ込んだジョン・レノンさんは彼女のサポートをし、ロンドンのリッスン・ギャラリーで、個展『ハーフ・ア・ウィンド・ショー』(Half-A-Wind Show)を行ったことを皮切りに、共同でつぎつぎと前衛的なパフォーマンスを展開するようになりました。
それから、ヨーコさん一色の生活となり、ヨーコさんへの思いを募らせ、1968年5月のシンシアさんが旅行で留守の間にヨーコさんを自宅に招き入れ、そのまま同棲生活を開始しました。
シンシアさんはその年の7月に離婚申請し、11月に離婚が成立しました。
1969年3月にジョンさんとヨーコさんは結婚しました。ヨーコさんは「オノ」という旧姓をミドルネームとしてつかい、「ヨーコ・オノ・レノン」を本名として、「オノ・ヨーコ」を活動名として使っています。
1980年にジョンさんが殺害されるまで、二人は新婚夫婦のように仲睦まじい様子を見せていました。
一方で、前妻のシンシアさんも2007年にジョン・レノンさんについて書いた本を出版しました。
タイトル:『ジョン・レノンに恋して』
著作:シンシア・レノン
出版社:河出書房新社