藤原道綱の母
当代随一の男性のの私生活を暴露した女性
平安時代の貴族の生活を知る貴重な文献として、『蜻蛉日記』という日記があります。
権力者の一人である藤原兼家の妻で、道綱の母が書いたものです。
女性の本名は家族以外には隠されていたため、後世に伝わっていません。
ここでは道綱母と呼びます。
当時は、夫婦の婚姻関係を結んだ後も同居することをせず、実家に住む妻の家に夫が通うという生活をしていました。
そして、夫は自宅や勤め先の宮中から複数の妻の家に通い、それぞれの家庭に子を持つ生活をしていました。
これが当たり前の生活だったので、「浮気」とは言わないかもしれません。
しかし、夫が次々と手を出す妻や妾の存在に、女性が常に心を痛めていたことが、この『蜻蛉日記』から分かります。
道綱母は、特に正妻であり、後に藤原家の栄華を築いた藤原道長を生んだ女性「時姫」に対して、嫉妬心や競争心が興味深い内容になっています。
出会いから結婚、出産、浮気・・・
日記には結婚生活が始まった954年から、974年ごろまでのおよそ20年ことが書かれています。
道綱母は、文献『尊卑分脈』によると、当時の日本でもっとも美しい三人の一人(「本朝第一美人三人内也」)であり、百人一首にも歌が選ばれたほどの教養のある女性です。
そんな美人な彼女の噂を聞きつけた兼家が、当時のラブレターである和歌を贈りました。
当時の兼家は高い役職にはついていませんでしたが、皇族に最も近いと言われた藤原家の一族で、将来を見こまれた御曹司でした。
対して彼女の父は中流身分であったために、この縁談に周りが飛びつきました。
しかし、彼女は「和歌を書きつけた紙の質もいまいちで大したことがないし、あきれるほどの悪筆だわ」と突き放し、「本気じゃないのでしょう?」と返信します。
つれない返事にもめげずに兼家がラブレターを次々と送り続けては、道綱母が返信します。
周りのフォローが効いたのか、やがて彼女が18歳のころに二人は婚姻関係を結びました。
その頃兼家は26歳で、既に正妻の時姫と長男がいました。
これは当時の標準的な結婚方法でした。
結婚した翌年の夏に、彼女は男の子を産みます。
後の道綱です。
子供が出来たころから、兼家は道綱母の元に立ち寄る回数が目に見えて減ってきました。
一方で兼家が新しい女性の愛人をつくってはそちらに顔を出していること、また順調に出世をしていることから、忙しくて道綱母の元にはほとんど立ち寄らなくなりました。
冬のある日、家の門を叩く音に家族の誰もが「久しぶりに兼家様がいらっしゃった」と喜びます。
しかし、道綱母は頑なに門を開けないようにと拒みました。
その後立ち去って行く彼の元に、菊の花(見頃を終えた花)と共に和歌を送りました。
嘆きつつ 独り寝る夜の 明くる間は
いかにひさしき ものとかは知る
<右大将道綱母>
「嘆きながら、独りで寝て夜が明けるのを待つ時間が、
どれだけ長く感じられるものであるか
お分かりでしょうか。(いや、分かりますまい)」
この歌が百人一首にもおさめられているものです。